ある人は毎日、仕事に追われていた。時間がいくらあっても足りない。スケートボードが好きで、現場に飛び込みたくて、その仕事を選んだ。しかし、自身でスケートボードを楽しむ時間を失い、いつしか心を保つことを失った。ある人は結婚適齢期だった。自分だけでなく彼女も意識していた。だが、当たり前と言われる幸せを求めることなく、結婚を遠ざけた。ゆえに、二人で過ごす未来を失った。ある人は安定している仕事をしていた。多少の不満はあっても、それを上回る満足感はあった。給料だって悪くなかったし、巷を騒がすブラック企業でもなかった。だけど、安定よりも自身が求める未来を夢見て、それを失った。
自由だと思った。昨日までとは違う。そう思うだけで、光はより輝きだし、影はより深まった。冬の寒さや、初夏の青々しい緑。季節に反応する街ゆく人々。それらすべてがこちらに向かって、「写真にしてくれ!」「撮ってくれ!」、そう言っているように感じた。目の前に広がる光景は、自分が少し変わるだけでこうも変わるのか。世の中をクソだと思っていたときは、自らがクソであっただけだったのだ。夏はすぐそこに迫っていた。 日に日に蒸し暑くなり、日差しもきつくなってきた、とある日。十数年の時間を過ごした猫を失った。とても大切な存在で、なんとしてでも助けてあげたかった。少しでも長く一緒にいたいと思った。だから、僕は猫にとっては痛く苦しかったはずの手術や治療を施した。しかし、悲しみとともに猫との時間は終わりを告げた。時を同じくしてSbに写真が載った。スケートボードの写真を撮りだしたときから、Sbに写真を載せたくて載せたくてしかたなかった。何度も何度も写真を送ったが掲載されない。たった一枚の写真を載せるのに何年もかかった。だけど、その唯一の写真は、二千文字に及ぶ気持ちと、東京を離れ大阪へ帰っていく大切な友人との思い出を添えて、最高の一枚として掲載できた。
僕は、夏がやってくる度にその二つの出来事を思い出す。
まとわりつくような湿気や暑さが、その都度、失ったものと、得たものを以てして胸の奥を揺さぶる。今夏、大阪で夏の始まりを迎えていた。ファインダーを覗くだけでも汗がしたたり落ちた。目の前では、さらに汗をかきながら、スポットに立ち向かうスケートボーダーがいる。何度も何度もプッシュを繰り返す。そして、メイクする瞬間。その一瞬だけ時が止まる。その場にいた仲間たちも含めて、みんなでそのメイクを凝視し、息をのむ。そして、メイクした本人は安堵感と達成感に陶酔していく。喜びたたえる仲間とメイクを収めたことに満足感を得るフォトグラファー。決してチームスポーツではないスケートボードが、なぜかひとつになる瞬間だ。これはスケートボードの不思議な魅力のひとつで、ある種の中毒性を持っているものでもある。その場にいたことを嬉しく思うし、再びその体験をしたくなる。実際に、幾度となくその体験を繰り返してきた。スケートボーダー、トリック、スポット、時間、天気、セキュリティ、そして自分。バラバラに点在しているものが、一枚の板という時間軸に集約され、ほんの一瞬だけ交わりあう瞬間。シャッタースピードで言えば、何分の一から何千分の一という、一秒にも満たない、ほんの僅かなもの。もちろん、スケートボードの写真というものは、偶然を撮っているわけではない。限りなくその一瞬に近づけるように努力しているけど、それは本当に奇跡に近い瞬間。カメラはあくまでも機械仕掛けの道具でしかないのに、撮る人の感情や、被写体のストーリーを写し出すもので、僕はその魅力に取り憑かれてしまった。写真に限らず、作品といえば、発信する人が伝えたいことを明確にメッセージとして表すものだけど、ときに何かを得るために何かを失って、その度にモヤモヤしている僕みたいな人間もいる。何かを得ることに快感を覚えて、自ら選択して失いながらもまた得たくなる。得るために何かを失うことが分かっていても、得たいと思ってしまう。その両極を行ったり来たりしているから、伝えたいことを明確にする前に、下を向き、足下を見つめ、目の前にあるはずの進むべき道を見失いそうになっていく。そして、モヤモヤを繰り返す。分かっているはずなのに何度も何度も同じことを繰り返している。こうやって何を得るか失うかに囚われていてる感情は、強烈なメッセージを発することなどなく、いつか撮った薄汚い川のヘドロに沈む自転車のように、いつまで経っても明確な体をなさないでいる。
母が病に倒れた。もって半年。早ければ一ヶ月。そう宣告された。スケートボードの撮影も、スケートボードをすることも、すべてを最小限にして、母と過ごす時間をつくった。受け入れ難い現実であったけれど、弱りやつれていく母を目の前にすると、時間の流れは人の感情などは無視して過ぎていくということを受け入れるしかなかった。流れていく時間とともに、何かが迫っていた。母に迫る死や、母を失うという現実だけでなく、今までに得た何かを失うことが迫ってきていると思った。あっという間に夏は過ぎていった。そして今。スケートボーダーという仲間たちと過ごす時間を、僕は再び得た。ヨコイチの写真をここに形になし得た。こうして生きた証を書き記す術を得た。不安定ながらも未来を夢見るときを得た。失うということは、自らが選択した上での結果であれば、得るものがあると信じていい。その結果、いろいろなものを失いつつも、数多くのものを得てきたと、僕は思っている。その中で、かけがえのない多くのものや、これから失うことになるものや、失ってきたものや、その狭間で揺れる自身の葛藤などを写真にする術を得てきた。写真を撮るという行為は、得ることも失うことも、抱えるモヤモヤも、シャッターを切れば写真にすることができる。その写真は、何が写っているか定かではなく、たいしておもしろくもなく、見た人のほとんどが興味を持たないかもしれない。それでも写真にし、誰かに見せ、迷ってはもがく心情を綴る。得ては失うことを繰り返し、自作自演のごとくモヤモヤと葛藤し悩んだ心情を、くすぶり消えそうになりつつも、魂を燃やして撮っていく。散々に右往左往してきた感情は、その中でいつしか研ぎ澄まされて、ヒリヒリと熱いひとつの芯を得るのだ。それは、少しばかり影の強いストーリーと、モヤモヤとして実体を得ない感情ながらも、確実に目の前で起きた奇跡のひとつひとつ。たとえば、かけがえのないものや時間、スケートボード。たとえば、失いながらも探し得たもの。そして、大好きな写真たち。